情景描写から読み解く小説問題(大学受験)

めっきりと寒くなってきました。今日は現代文の教壇に立つ日。テーマはとある論説と、とある小説(センターレベル)の2題構成。私の授業では、基本的に90分の授業で2本の現代文と自習前提でランダム出題する漢字のテストを一挙に終わらせます。

 

予備校でも90分で2本やることは珍しいと思いますが、これには理由があります。

第一に、「1本の現代文を何コマ(コマ=授業回数)もかけて精読すること」は必要かもしれないが、受験指導でやるべきものではない。

小学校や中学校、はたまた高校でやるだらだらとした精読は退屈だったという個人的な経験も、当初はありました。現在では必要なこともあるのかな、とも思ったりもしますが、それでも、その必要性の趣旨を貫徹し、生徒の達成感を与え得ぬ授業はやはり退屈だと思います。単に私がそういう先生に出会えなかった不遇もあるかもしれませんが(?)、私は少なくとも高校生には、たくさんの文章に触れて欲しい。そういう授業をしていて、見事に面白い授業を展開していた先生は、一人、中学校にいました(ただし、校長と喧嘩しながらやってたみたいです)。

 

第二に、というか、実は、これが一番重要な理由ですが(だったら、第一では?と思うが、第一は動機、第二理由は経験を重ねて醸成したものなので)、「解答時間」を意識することを身につけさせる意図もあります。

試験時間は限られています。例えば、センター試験は、基礎的な問題がほとんどだとは思いますが、国語だけは80分で現代文(評論、小説)・古典(古文、漢文)が標準的な組み合わせになっておりまして、かけられる時間は20分しかない。小問当たりの配点が他科目に比して大きく、時間不足が致命傷になる。良質な問題が多く、難関私大よりも難しいこともある。

だとすれば、読解力の養成に加え、時間意識を解説講義でも意識させることは重要です。

そういうわけで、20分で解答する問題をまず、可能な限りの現場思考と効率性を練った上で、20分で解説し、納得してもらう。その後、20分かけて、語彙や読解の掘り下げ、うんちく(これは教養レベルの涵養のため)として楽しく会話を楽しんでいます。

それでも、計算上は80分でまとまるので、残りの10分で漢字(ひいては語彙)を鍛えています。なかなかやる側もあっという間ですが、濃密な時間を過ごさせてもらっています。論説2本の日が普通なので、最終時間帯の授業にしてもらって、生徒たちを疲れさせても大丈夫なように(笑)

 

さて、本日は、センター形式(私大の出題を私が作り替えたもの)の小説でした。

増田みず子「花」(講談社「夢虫」所収)が題材です。著作権の都合もあるでしょうし、別にその問題をどっぷり解説するつもりではないので、本文掲載は見送ります。もう少し、私が考える汎用的な小説の読解法について今日は書いてみたいと思います。

 

「小説なんて、なんとなく読めればいい。」

「小説に正解なんてありうるのか。」

「確固たる解き方は、ない。」

生徒たちに小説の相談を受ける際に、生徒たちが発する常套文句ですね。

 

それから、巷の参考書をひもといても、解説のしやすい題材を選んで、「帰納的」に後付けのもっともらしい解説をしているものが多い気がして、演繹的にその読解法を運用するのは受験生には難しいのではないかと思うものが多いです。

 

というわけで、大学受験時代に、数学と現代文が得意という謎めいた属性の私(実は、数学も教えています)が、現代文を学生時代から教えているわけですが、どうにかしてロジカルに、明解に解説ができないかと研究し、実戦しているわけです。その一つを書き留めておこうと思います(現在の立場は、語彙力に支えられる感性は必要ですが、ロジカルに解答できるものしか少なくともセンターでは問われない)。

 

今日、増田氏の文章を通して、教えたかったのは、

「情景描写」に基づく小説読解

です。

 

本日の問題。

問:本文の内容と表現の説明として最も適当なものを、1つ選べ。

①他人と打ち解けることが苦手な主人公が、自分の居場所を見つけていく過程と心の動きが、細緻な情景描写を通して描かれている

②・③省略

④主人公が自己の有り様を(中略)・・・心理描写を情景と紐付けながら描かれている

という出題でした。

正解は③という(笑)設問でしたが、正解に至ったのは25%。残りは、①でした(④は前半が明らかに事実誤認の内容だったため、選んだ者は不在)。

つまり、この設問で75%が50点中、5点を失点したのでした。

 

しかし、感想を伺えば、

「いかにも正しそうだった。」

という反応。

 

本文は、結論から言うと、女性作家らしい柔和なタッチで、「主人公の内面に焦点をあてた心理描写を中心に構成されている」ものですが、情景描写も小説ですからないはずはない。

 

例えば、一節だけ引用(設問の都合上、表現を改めた箇所がありますし、実際は他にも様々な箇所があります)しましょう。

不器用な主人公が、いつ解雇されるかと不安の毎日のなかでウェイトレスを勤めている。店内清掃をしているシーンです。店主は口数の少ないおじさん。

(引用)

店主「そんなに一所懸命やらなくてもいいよ。床が削れてしまう。」

主人公「すみません。私、不器用で、力が入りすぎてしまうんです。」

主人公は、うろたえ、謝った。

店主「どうも、そうらしいね。」

主人公「すみません。」

店主「謝らなくていい。」

そう言うと、店主は何か言おうとする主人公を置いて、カウンターの中へさっさと入っていってしまった。

その日、帰り際には、表の壁から、ひときわ目立つ色のウェイトレス募集の張り紙がなくなっていた。

・・・(中略)

主人公は身体の中に、久しぶりに、少しだけ自信のような気持ちがわいてきた

(引用ここまで)

たとえば、「店主と主人公の言葉の掛け合いとその様子」や「その日、帰り際には、表の壁から、ひときわ目立つ色のウェイトレス募集の張り紙がなくなっていた。」は情景描写の一種といえるでしょう。

これをもって、「①自分の居場所を見つけていく過程と心の動きが、細緻な情景描写を通して描かれている」と評価することはできるのでしょうか。

 

私は、これは違うと思います。「情景描写を通して描かれている」とは言えないのです。敢えて引用部の情景描写に役割を付すとするなら、

主人公は身体の中に、久しぶりに、少しだけ自信のような気持ちがわいてきた。」という主人公の心情の理由付け(情況証拠)になる情景描写である、というべきではないでしょうか。

 ウェイトレス募集の張り紙がなくなっているということは解雇されることはないことの有力な情況証拠です。それに、店主が口数の少ないおじさんであることを合わせ技とすれば、合理的に考えて、その「言葉の掛け合いの情景」も、素直に「別に責めていない。謝らなくていいんだよ?」と解するべきを相当とすると思います(裁判所みたいな口調ですね)。

 

 したがって、「情景描写を通して描かれている」わけではない。

 

 では、「情景描写を通して描かれている」とはいかなる情景描写なのでしょうか。入試問題からひもとけばその例はごまんとありますが、簡潔にするために、机上事例でいきましょう。

 Aは、病院から出た。

 ①空は澄み渡り、木々の緑がまぶしい午後だった。

 ②私を迎えに来た妻が、楽しそうに誰かと電話をしているのが見えた。

 ③めずらしく小春日和の陽気で、静かな午後だった。

 

 いかがでしょうか。机上事例ですので、Aが何者かもわかりませんし、何のために病院に行ったのかも、それ以上何かを語るわけではない。

 しかし、あえて、これ以上を語らなくても、Aの心境の推測はいくつか可能ではありませんか。例えば、

 ①病気の寛解により、解放感をかみしめている。

 ②妻の描写から、合わせ鏡のように、筆者の明るい心境が読み取れる。

 ③今日はいくらか具合がよく、小康状態に一息ついている。

 解釈は人それぞれですので、単なる一例ではありますが、これが、情景描写を通す、という作法になると思われます。つまり、情景描写に「心情を投影する」、「雰囲気に心情を映し出す」といったところです。

 

 これは、心情把握の問題でも活躍します。少なからず、刊行された小説は、プロの小説家によるもの。情景描写に何らかの息吹を吹き込んでいるはずですし、無意味な情景描写をすることは、蛇足になってしまう。

 そうだとすれば、心情把握においては、直接あるいは比喩を介した間接的な心理描写に加えて、情景描写を通して何らかの心情が映し出されている可能性を探り、最終的には矛盾しない(無難な)選択肢を選ぶことになると思います。

※経験上に限る話なので、確信はまだ持てていないのですが、次のようにも考えています。上記増田氏の小説引用部のような箇所は心情把握の問題にはならない、と思われます。寧ろ、敢えて心情描写に傍線を引き、「なぜそのような心情になるか」、という理由を問う問題になるのではないでしょうか。従って、情景描写が心情の情況強証拠となるという機能も、覚えておいて損はないでしょう。

 

 結構長くなってしまいましたが、この記事はとりあえず、完結しそうです。解説を読む際も、こうした「公式」をベースとして読むと、自学自習も可能となるでしょう。